飯縄神社〜城山〜パークセンター

            

 
2010.04.08 飯縄神社−−分岐(御屋敷/小網口)−−太鼓曲輪−−−堀切−−−土蔵−−
-------(2分)------------------(3分)---------(1分)-----(2分)---(1分)-

−城山山頂(本城曲輪)−分岐(御屋敷/小網口)−分岐(展望広場/御屋敷跡)-
-----------------(6分)----------------(10分)---------------------

−−−御屋敷跡−−−パークセンター−−−展望広場
-(1分)---------(3分)------------(4分)


       (山道などが変更されている場合もありますのでご注意ください)
 
               (画像をクリックすると、大きくなります)

 
「飯縄曲輪跡」に「飯縄神社」が建っています。
    津久井城の守護として、建久8年(1197)に津久井氏が勧請したそうです。
    飯縄曲輪は、神社のある最高地点を中心に段々に周りを取り巻く形状をしています。
お参りして鳥居をくぐり階段を下り、城山山頂に向います。

    * (飯縄曲輪跡)

               


    * (飯縄神社)

        

 
少し下ると、ベンチのある分岐。
標識(←御屋敷・根本口・雨乞山 ↑本城曲輪・城山山頂0.2km
                     ↓飯縄曲輪0.1km・津久井湖1.4km 小網口1.0km→)
直進して城山山頂へ。

    * (ベンチのある分岐)

        


    * (御屋敷方面)・・・(城山山頂方面)・・・(小網口方面)

        

 
突き当たりの「太鼓曲輪」を右折し通過。

    * (太鼓曲輪)・・・(城山山頂方面へ)

                  

 
「堀切」通過。
   堀切と引橋
      戦いになると、普段使っていた橋をはずし、本城曲輪へ攻め入ることが困難になる
      仕組みになっていました。
      堀切は尾根伝いに攻めてくる敵を防ぐため、尾根を逆台形に大きく掘り込んだもの
      です。
      平時は木橋がかけられていますが、いざ戦いとなると橋を引いたり落としたりして、
      敵を防ぎました。
      津久井城では山頂の尾根に三箇所の堀切があります。
   引橋について
      山城では木橋や土橋が使われます。
      この場所には引橋の地名が伝えられており、また古絵図にも橋が描かれているこ
      とから、堀切を渡る木橋が架けられていたものと思われます。
      木橋の構造はよく解りませんが、はしごを横にねかせたような簡易なもの、コロや
      車輪を使い移動することができる引橋、もちろん現在のように固定されたものもあ
      ったようです。
      ただ、多くは非常時には簡単に取り壊したり、移動することができるものでした。
   *八王子城跡(御主殿跡コース)にも「引橋」があります。

    * (堀切と引橋)・・・(堀切)

                  

 



「土蔵跡」は広くベンチがあります。

        


反対側にもベンチと展望が。

        

「土蔵跡」の上が「城山山頂・本城曲輪」です。
   本城曲輪と土塁
      津久井城の中心です。
      戦時に城主がたてこもる最後の砦です。
      周囲の尾根には何段もの曲輪や長大な竪堀が掘られるなどとても堅固な作りにな
      っています。
      土手状に残った部分が土塁です。
      これは土を突き固め盛り上げた防御壁で、敵を攻撃する台としても使われました。
       虎口・・城の出入口、各曲輪にある出入口のことです。
       曲輪・・くるわ・郭とも書きます。
            尾根や傾斜地を造成し平坦地をつくり、堀・土塁柵などで囲み建物などを
            構えた区画。
       竪堀・・尾根下を傾斜伝いに横から侵入する敵の動きを防ぐため、山の斜面に直
       角に掘られた堀。
小高い場所に大きな石碑(築井古城記)が。
高尾山方面が見渡せ、ベンチやトイレもあります。

    * (石碑・築井古城記)

                  


        


              


                    (全景は、パノラマでご覧ください)

 
「展望台方面」に向う事に。
来た道を戻り「太鼓曲輪」を直進しジグザクに下ると、左折した道と合流。
  *左折して下る道のほうが、しっかりしています。

    * (太鼓曲輪)・・・(直進)・・・(ジグザクに下る)

        

 
少し下り、ベンチのある分岐を「御屋敷方面へ」
標識(←御屋敷・根本口・雨乞山 ↑本城曲輪・城山山頂0.2km
                  ↓飯縄曲輪0.1km・津久井湖1.4km 小網口1.0km→)

    * (ベンチのある分岐)・・・(御屋敷方面へ) 

        


下って行くと分岐(女坂)。

    * (女坂方面へ)

        


すぐ下に再び分岐。
標識(←根本口0.7km ↑城山山頂0.5km ↓御屋敷0.3km 小倉口2.0km→)
御屋敷方面に下ります。

    * (再び分岐) 

                  


    * (根本口方面)・・・(御屋敷方面)・・・(小倉口方面)

        

 
舗装の広い道になり、御屋敷跡方面に下ります。
標識(←荒句バス停  ↑御屋敷跡・パークセンター  展望広場→)

    * (現在地)・・・(御屋敷方面)

        


すぐ広い「御屋敷跡」です。
    戦国時代、津久井城主内藤氏が館を構えていたとされる場所です。
    発掘調査では、深さ2.5mの堀や半地下式の蔵、中国製磁器や天目茶碗をはじめ、
    さまざまな遺構や遺物が発見されています。
       (現在は保存して埋められています)
    曲輪は天正18(1590)年の落城後もおそらくは代官によって利用されていたことが
    わかります。

                  

 
下り舗装の広い道を右折すると、「牢屋の沢」にかかる「しろさかはし」です。
またこの辺は「しんでん」と呼ばれています。
   「牢屋の沢」
      牢屋があったといわれる沢です。
      牢屋は、江戸時代初頭に代官がいたときに使われたとされます。
      代官が裁いた罪人が牢屋に入れられたのでしょう。
      ここから少し上流の場所にあったようですが、場所までは特定されていません。
      牢屋は「水牢」だったといわれ、水で罪人を苦しめたものと思われます。
      戦国時代には地形を削って「堀」として使っていたのだとかんがえられています。

    * (しろさかはし)

        


   「しんでん」
      このあたりは「しんでん」と呼ばれています。
      これは江戸時代に「新しい田畑」として開発が行われた名残だと考えられています。
      ここで発掘調査では、土塁(土の壁)や、大きな穴などが見つかりました。
      この穴は橋に関係する柱の穴の可能性が高く、戦国時代にも現在の「城坂橋」と同
      じ位置に橋が架かっていたのではないかと考えられます。
      ちなみに、パークセンターに展示してある「相州津久井古城図」では、ここに橋が描
      かれているのがわかります。

                      


「しろさかはし」を渡ると、津久井湖城山公園パークセンター・研修棟・トイレ棟があります。
   津久井湖城山公園パークセンター
      公園の管理や利用案内などの機能を備え、展示物・組紐体験・
            ・工作体験コーナー・城山自然写真コーナー・ヨロイ試着可・・・

    * (右画像/研修棟)

                  


    * (パークセンター)

        



               (画像をクリックすると、大きくなります)


 

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