(6)天守二階2

                        


                         (画像をクリックすると、大きくなります)

   ● 点火方法の進歩
       銃器の発達は、いいかえれば点火方法の進歩ともいえる。
       点火方法は、指火式から現代の雷管撃発式になるまでには、火縄式・火打石式・雷管式と数百年に
       わたり、絶えまない研究が続けられた。
         *雷管撃発式・・火門に雷管をかぶせるだけで直ちに撃発できるもの
         *指火式銃
           最初に出現した火砲で、とくに装置と呼ばれるものはなく、直接火種を火門に押しつけて点火
           する。
           火矢筒・石火矢・仏郎機等の旧式火砲には19世紀の初めまで使われたが、小銃では15世紀
           に火縄銃が生まれると同時にすたれた。
         *ピン打式銃
            1836年にフランス人 ル・フォショウが考案した。
            銅製の筒の後端にほぼ直角に針が突出していて、この頭を打つことで薬莢(やっきょう)内の
            雷汞(らいこう)を発火させる。
              薬莢・・真鍮製の小筒で、火薬をつめる容器
              雷汞・・水銀を硝酸で溶かし、エチル・アルコールを加えて反応させてつくる化合物。
                   わずかの衝撃摩擦でも爆発する。

    * (点火方法の進歩)

                              


    * (左画像・上より/指火式銃・・火打式短銃・・指火式銃)
       (中画像・上より/ピン打式銃・管打式短銃)
       (右画像・上より/コルト・ポリスピストル・コルト・ネービィーレボルウァー・コルト・ネービィーレボルウァ)

                         


   ● 前装銃から後装銃への発展
       火縄銃や燧石銃の欠点を解決したのが雷汞と呼ばれる点火薬を用いた雷管である。
       最初は、雷管を火道にかぶせ撃鉄でたたくと発火し、前装していた発射火薬に通じて爆発、弾丸を
       打ち出す「前装式管打ち銃」と呼ばれる雷管銃だったが、まもなく薬莢内に発射火薬と弾丸がこめら
       れた「後装式管打ち銃」となり、やがて雷管と薬莢が一つになった後装銃となっていった。
       この時期の欧米における鉄砲の進歩・変化は驚異的で、またたく間に後装式連発銃にまで至るの
       である。

                      


   ● 松本城と鉄砲
       松本城は銃砲による攻防を予想して築かれた名城である。
       城の周囲にめぐらした石垣上の塀ややぐらは、銃弾に耐える厚い塗籠づくりで弓を射るための矢狭
       間や鉄砲を発射するための鉄砲狭間(銃眼)が数多く設けられた。
       天守閣だけで矢狭間60、鉄砲狭間55がある。
       天守閣から内堀、外堀までの各80〜200mは鉄砲の有効射程距離内に入るように設計されている
       松本城天守閣の鉄砲狭間は正方形で、内側が広く、広角度に銃身を回して敵を狙えるようになっ
       ている。
       周囲の300m以上の敵に備えて使用するのは特別に銃身の長い狭間銃であった。

   ● 戦国期の弾づくり・火縄づくり
       女子の弾づくりの図
         戦国期、武士の妻や娘が受け持った作業に鉄砲の弾づくりがある。
         火縄銃にはそれぞれの銃に合った鉛弾が必要で、いつ何時攻め寄せてくるかも知れない敵に備
         えての弾づくりは女子の仕事だった。
         もちろん半農半武士の女房や娘も同じことで、文久3年(1863)に刊行された「銃戦紀談」に古き時
         代の画を写すと題して、その所作がはっきりと描かれている。
       火縄づくりも装具の補修も女性の仕事
         火縄は火縄銃にとっては特に大切なものであった。
         実際に火縄銃を射ってみると、よい火縄だと命中度がちがう。
         木綿の火縄は火もちもよく、火縄の先に生じる灰も真っ白な軽い灰で、引き金をひいてからドンと
         弾の出るタイミングがまことによい。
         戦国期には木綿は絹におとらず非常に高値貴重なもので、古書に、当時は火縄の素材が高価な
         ため繊維の長い竹や麻を混ぜて火縄をつくったという記録もある
         その他、装具の補修も、糒(=干し飯)や味噌などの携帯食料の確保なども、火縄や弾丸づくりにお
         とらず大切な女性の仕事だった。

                                    


            


                            


   ● かわった鉄砲

    * (右画像/指火式銃)

                      


    * (管打式銃)・・・(管打式銃)・・・(指火式銃)・・・(指火銃)

          


   ● 戦いと鉄砲 大阪の陣
       大阪冬・夏の陣や島原の乱では、小筒のほかに大筒が威力を発揮しました。
       大筒の破壊力は無論のこと、夜中に発射した幕府軍の大筒の発射音は城中に立て籠もる人々にも
       大きな打撃をあたえた。
       オランダやポルトガル製の大筒が使用されたが、国内でも1貫目筒が生産されるようになった。

                           


   ● 島原の乱
       島原の乱では、12万の幕府軍は火縄銃で武装した農民3万5000の激しい抵抗にあい、オランダ船の
       援助をえて漸く鎮圧した。
       幕府は火縄銃の脅威を強く感じたので、その後鉄砲の取り締まりを強化した。

                  


         


   ● 長篠の戦い (鉄砲隊、最強の武田軍団を壊滅)
       織田信長・徳川家康連合軍は設楽原で、3000梃の鉄砲隊の活躍によって、1万5000の武田騎馬軍
       団を打ち破った。
       連合軍は鉄砲隊を3段に編成し、馬防柵近くまで武田騎馬隊を引き付けて一斉に発砲した。
       この長篠の戦いから、今までの騎馬中心の戦いが鉄砲主体の戦いと変わり、信長の全国戸尾統一
       事業は急速に進められた。

                   


                       


   ● 象がんで装飾された銃
       泰平の世の中になると、武具としての銃に模様を刻んで、美術品としての色合いがつけくわえられた。
       「南城佐兵衛作」と刻まれているこの小筒の銃身には藤の花の模様を彫り、銀や真鍮をはめ込む象が
       んという金工術が施されている。
       松本城鉄砲蔵の銃の中に、家紋・文字・動植物などが彫り込まれたものがある。

                              


   ● 敬白起請文前書之事(けいはくきしょうもんまえがきのこと)
       砲術の秘伝をうけついだ上は、決して他へは漏らさないことなどを誓った起請文である。
       寛文2(1662)年から貞享4(1687)年まで、約25年間にわたって、門弟たちの名前が書かれ、血判が押
       されている。

           


                  


                         (画像をクリックすると、大きくなります)


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