(3)仁王門→鐘楼

             



        (16)仁王門      (17)奥沢城跡      (18)鐘楼      (19)鷺草園(参道/右)


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   ● (16)仁王門
          重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。
          一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあ
          って寺域全体の安全が意図されている。
               淨真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)

         紫雲楼(仁王門)楼上の二十五菩薩
          当山に参詣される人々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、三
          仏堂へと足を運ぶことになる。
          すなわち紫雲のの門より内は荘厳の浄土(彼岸)であることを示している。
          この楼門は寛政年間の建立である。
          当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、こ
          の楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。
          淨真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)

                      



                  



                  



                  



                 



     反対側より

                          



                  



                          



     (右側)

                             


     (左側)

                             



                          



   ● (17)奥沢城跡
          中世世田谷を治めていた吉良氏または同氏の家臣である大平氏の居館であったと伝えられて
          います。
          天正18年(1590年)、小田原北条氏が滅び、吉良氏は下総国に逃れ、大平氏もまた等々力に
          潜居しました。 その後、奥沢城は廃城になったと考えられます。
          その後、延宝6年(1678年)に浄真寺が建立され、周囲を四角く囲む土塁はよく原形をとどめて
          います。

                      


   ● (18)鐘楼
          仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名楼の誉れ高く、宝永5年(1708
          年)の建立である。
          梵鐘は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖が二親菩提のために
          鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。
          また楼の四周に刻まれた十二支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。
          毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者でにぎわっている。
               淨真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)

                  



                  



                  



   ● 境内
       境内周囲の土手はこの地がかつて奥沢城であったときからの名残りで、鎌倉期における築城学上「
       土塁」の形態を示すものとして貴重な史料である。
       境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木は推定樹齢七百年以上、またトチ・高尾マキ・菩提樹
       およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない、武蔵野の面影を
       残存する霊域である。
       参道・惣門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂(じきどう)などいわゆる七堂伽藍
       の完備した僧房として数少ない寺院である。
       また寺域全体が極楽往生の様相に形どられ、弥陀三六(さぶろく)の願いに即して、境内3万6千坪、三
       仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂ケヤキ柱三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように
       細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参拝結縁したな
       らば、往生浄土の信心を得ることができるという願いがこもっているのである。
       このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失われてゆく都内の現状の中できわめてたいせ
       つなものである  将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。
          淨真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)

                  



   ● 参道途中を右折し、鷺草園方面へ

                  



   ● 吉岡富士洞の句碑  「天碧き日は 鷺草の天に翔つ」

        


   ● (19)鷺草園
           鷺草について
             鷺草(昭和43年8月1日、区の花に指定 ラン科)は陽の当る湿地原野に生える多年生草本
             で7〜8月頃、高さ20〜30センチの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる鷺の姿に
             似ているところからこの名前がついたものと思われます。
             区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田甫に自生し奥沢には「鷺の谷」・また地続き
             の目黒区自由ヶ丘には「鷺草谷」という小字の地名がありました。
             この鷺草にまつわる悲話もいくつか伝えられておりますのでその一つを御紹介します。
             「室町時代世田谷城主吉良頼康には、家臣の奥沢城主太平出羽守の娘で常磐姫という美
             しい側室がいて頼康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これをねたんで常
             磐が不義をしたとあらぬ告げ口をしたので遠ざけられた。
             悲しんだ常盤は幼い頃から愛育した白鷺の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放っ
             た。 たまたま奥沢城付近で狩をしていた頼康が白鷺を射落したところ脚に手紙が結んであ
             ったので開いてみると常磐の遺書であった。
             頼康は驚いて急いで帰館したがときすでに遅かった。
             白鷺に射落とされた場所から1本の草がはえ、やがて鷺に似た可憐な花をつけたのです・・」
          サギソウ(鷺草)
             花を見た人はきっと名前にうなずいてしまうサギソウ。
             花は鳥のサギが羽根を広げた様子にそっくるなのでこの名前がつきましたが、これは3枚あ
             る花弁のうち1枚で、ラン科植物に独特の唇弁とよばれるものです。
             がく片は緑色で3枚あり、花のうしろに長い距がつき出します。
             地下には小さな球根があり、花の頃から数本の枝をのばし、その先に新しい球茎をつくり繁
             殖します。 斑入りの銀河という園芸品種もあります。

             サギソウの自生地は、現在少なくなっていますが、おもに本州〜九州の低地の湿地に生え、
             食虫植物のモウセンゴケ類、ミミカキグサ類などとともに生育しています。
             かつては世田谷区にも自生があったと言われています。
             花期は7月中旬〜9月上旬で、地域によって違いがあり、南に行くほど遅くなると言われてい
             ます。   みどりとみず政策担当部 公園緑地課 玉川公園管理事務所

                  



                  



                          



      (観音堂の裏側)

                          



   ● 参道右(本堂左側)

                  



                        



   ● 参道左

                      




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                                  ● (入口へ) ●


  

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