(3)好文亭 2

             



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   ● 好文亭(入口)
          創建 天保13年(184年)7月  水戸藩第9代藩主 徳川斉昭(烈公)
        好文亭は、昭和20年(1945年)8月2日未明の空襲で全焼しましたが、昭和30年から3年をかけて
        復元しました。
        その後、落雷により奥座敷が焼失しましたが復元されて現在に至っています。
           好文亭 381.70平方メートル(115.47坪)
              奥座敷 338.34平方メートル(102.35坪)   橋廊下  18.87平方メートル( 5.71坪)

                           


                  


   ● 羽衣の松
        偕楽園には、天翔の松・羽衣の松、三公園の兼六園には、根上がりの松・唐 崎の松、特別名称
        の栗林公園には、鶴亀松・根上がり五葉松と、それぞれ名木がある。
        天翔の松や羽衣の松には、兼六園、栗林公園の松のように、人為的に創られたものではなく、永
        年の風雪に耐えた自然な姿である。
        この松の樹容は、偕楽園の自然式大名庭園を象徴するものであろう。
        梅林から眺めた天翔の松は、空高く天を衝く黒松である。(省略)
        羽衣の松は、仙奕台の南岸に根を  、やや斜めに立ち上がって、全ての枝を南崖に垂らす。
            (省略)
        羽衣の松も黒松であって、幹周り2.4メートルで天翔の松より若い。
        白梅を白砂、波、衣にたとえ、黒松を添えると、三保の松原に連なる。

        常磐公園攪勝図誌には「仙奕台の辺りに松樹ひと根は駿州三保の松原羽衣の松苗をうつされし
        となり」とある。
        真偽はともかく、この松の由来はここにみられる。(以下省略) 松崎 生著「偕楽園歳時記」より
           昭和53年(1978年)11月25日   天翔の松伐採(松喰い虫)
           昭和54年(1979年)10月10日   羽衣の松伐採(マツノザイセンチュウによる)

                  


                           



   ● 好文亭奥座敷襖絵修理事業
        長い時間の経過で傷んだ好文亭奥座敷の襖絵全96面の大規模な修理事業がはじまりました。
        文化庁の助成によるこの修理事業は東京芸術大学の文化財保存学専攻が監修し、専門の修理
        技術者(表具死)によって施工されています。
        襖絵の保存状態と室内環境を調査したうえで、緊急性のある襖絵から修理を開始しました。
        水戸市民をはじめ、多くの方々に愛されてきた好文亭の襖絵を末永く後世に伝えていくための修
        理事業です。
     修理の必要性
       日本の絵画はおよそ数十年の周期で修理を行うことによって、今日まで継承されてきています。
       現在、わたしたちが一般に目にすることのできる古典絵画のほとんどは、今までに何度かの修理を
       繰り返され伝えられてきているものです。
       奥座敷の襖絵も昭和30〜40年代に描かれてから、剥落止めなどの細かな補修を繰り返しながら現
       在の姿となっています。
       環境の変化は、絵具の剥落や紙の損傷のほか、襖の下地骨のゆがみなどもひき起こします。
       そのため、将来を見すえた保存のためには襖の解体を伴う根本的な修理が必要となります。
       今回の襖絵の修理は「現状維持」という文化財修理の基本理念に従って実施しています。
       色や形を描き加えることなく、今の状態をできるだけ長く保つための修理です。

       修理を行う前に、まずは襖絵全96面の損傷や劣化の様子を詳細に調査して全体状況を把握しまし
       た。
       現状調査では、紙が大きく裂けている箇所があったほか、絵具の剥落や汚損が全域にわたって確
       認できました。
       また、建造物に設置されている襖絵は、環境からの影響を強く受けるため、室内環境の調査も行っ
       ています。
       温湿度の変化、照度や紫外線の量などを調査し、各間の室内環境と襖絵との関連性を比較しました
       襖絵が長年置かれていた環境を把握することは、修理を終えた襖絵を適切な環境で管理していくた
       めの大切な情報となります。

    



   ● 好文亭の二人の画家
       奥御殿の襖絵は東京芸術大学で教鞭を執った日本画家の須田きょう中と田中青坪によって描か
       れました。
       製作の基本方針は、その部屋の名称を画題として、作家の自由な発想で描くというものでした。
       製作は第一期と第二期に分けられます。
       まず、きょう中が萩、梅、紅葉、松の間を完成させましたが、竹の間の 移ろうとした頃、病に倒れ、
       残りの製作は青坪へと引き継がれました。
       青坪は竹、菊、桃、桜、つつじ、入 (南天)を製作しています。

                  


    ○須田きょう中(すだきょうちゅう) 「明治40年(1907)〜昭和39年(1964)」 福島県生まれ、本名・善二。
       中学生の頃、藤島武二に入門して洋画を学んだのち21歳で東京美術学校に入学しました。
       在学中は松岡映丘に学び、卒業後は前田青邨に支持します。
       在学中から頭角を現し、活躍の場を帝展から新文展、そして院展へと移していきました。
       好文亭の障壁画を描いていた頃のきょう中は、芸大の助教授に就任し、院展でも高い評価を受け
       始めた時期でしたが、病に倒れ惜しくも昭和39年に57歳の若さで没しました。

       きょう中は帝展や新文展に出品していた時期は、明快な写実による風景画などを手がけてました
       その後は院展において、鵜飼いや正倉院など日本の伝統を感じさせるモチーフを主題としながら、
       形態の単純化、抽象化を追求し、重厚な色彩を伴った作品を発表しました。
       好文亭の襖絵を描いた時期は、まさにこの画業の充実期に当たっています。
       襖絵を描くにあたっては装飾性に重点がおかれ、きょう中の新しい画境を感じさせるものとなってい
       ます。

   * (須田きょう中・・紅葉の間)

              


    ○田中青坪(たなかせいひょう) 「明治36年(1903)〜平成6年(1994)」  群馬県生まれ、本名・文雄。
       太平洋画会研究所で洋画を学んだ後、小茂田青樹に師事し、日本画に転向しました。
       院展を中心に活躍し、大正13年に初入選したのちは継続して入選を果たしたし、昭和7年、29歳のと
       きに最年少で日本美術院同人になっています。
       同19年に東京美術学校助教授、同34年に教授となって後進の指導に尽力しました。

       青坪の初期作品は徹底した細密描写が特徴で、師である小茂田青樹の影響が強く見受けられます
       鳥や草花などの写生を精力的に行い、自然を丹念に観察した描写は生涯を通じて作品制作の土台
       となりました。
       昭和期に入ってからは新しい日本画を模索して、洋画の構図や色彩を取り入れたモダンな作品を次
       々と発表しました。
       好文亭の襖絵も伝統的な画題を取り扱いながら、青坪作品に共通する自由で伸びやかな明るい色
       彩が見られます。


   * (田中青坪・・菊の間)

            


   * (田中青坪・・桃の間)

                 



                        




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                               ● (入口へ) ●

  

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