本丸跡→鏡石→天守台跡→富士見台

         


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                  <<本丸跡−→鏡石−→天守台跡−→富士見台>>

 ○ 「本丸跡」には、「鏡石」・「天守台跡」・「社務所」があります。
    社務所の傍を通り裏手に出たところが馬場で、往復するだけの鉄砲馬場といわれ現在は桜の名所です。
    富士見台や馬場の傍の散策路には、臼田亜浪や高浜虚子の句碑があります。

     ● 本丸跡
         小諸城は、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎
         光兼(木曽義仲の武将)が、現在の城址の東側に館を築きました。
         そのご大井光忠が小室氏の勢力を押さえて鍋蓋城を築き、その子光為が出城として乙女坂城(
         別名白鶴城・二の丸跡)を構えました。
         天文23年(1554)甲斐の武田信玄の攻略により落城しました。
         武田信玄はこの地が重要であることから、山本勘助と馬場信房に命じ築城したのが現在の小諸
         城址で、「酔月城」と呼ばれています。
         そのご仙石秀久が城主となり二の丸、黒門、大手門を建て、その子忠政が三の門、足柄門を建
         て、現在の小諸城が完成。
         勘助が縄張りをした小諸城は、「攻めるに難しく守るに易い城」いわば難攻不落の城でした。
         その後、城主は徳川・松平氏など六氏に変わり元禄15年(1702)牧野氏になり十代続きました。

     ● 鏡石
         表面が鏡のように磨かれた石です。
         山本勘助が武田信玄の命により小諸城を築城したおり朝に夕に、この鏡石におのれの顔を映し
         反省したと伝えられています。
         一説には隕石とも言われています。
              遠近(をちこち)の深山隠れの秘事(ひど)の縄
                                幾千代を経む城の松風    山本勘助

    * (本丸跡)・・・(鏡石)

               


     ● 天守台跡
         三層の天守がありましたが、寛永3年(1626)に落雷で焼失し、その後は徳川の政策により再建
         されなかったといわれています。

                         


     ● 社務所

                          


                          


     ● 小諸八重紅枝垂桜  (残念ながら咲いていません)
          昭和40年代、当時の日本花の会の初代農場長が、この桜をほかにはない、ここだけのものと
          して「小諸八重紅枝垂」と命名されたそうです。
          千曲川を望む馬場を中心に、ソメイヨシノや小諸八重紅枝垂れなど約300本があり、日本さくら
          名所100選にも認定されています。

    * (小諸八重紅枝垂桜)

                  


     ●  亜浪の碑
          臼田亜浪は明治12年小諸生まれで、大正昭和の俳壇に独自の地歩を築いた俳人です。
              雪散るや 千曲の川音 立ち来り      臼田亜浪

                          


     ● 高浜虚子の句碑
          紅梅や  旅人我に  なつかしき

     ● 富士見台
         天気の良い日に富士山を眺望できることから名付けられたそうです。

    * (富士見台)

                  


    * (菊の展示会をしていました)

                  


     ● 桜開花状況の観測の木

                          



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                               ● (入口へ) ●

 

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